めんどくさいは不安の現れではないか

自分はよく、めんどくさいと感じる。何かをする前、とくに物事が初めてであったり色々と用意することが多ければなおさらだ。最近、キャンプへ行った。泊まりでテント泊をするのは初めてだったので色々と準備をしないといけないし、わからないことだらけだったので直前まで「めんどくさい」と思っている自分がいた。しかし、キャンプは楽しいことではないか、なぜめんどくさいなんて思うのだろうか。そこで自分の中の気持ちをよく考えてみると、わからないことが多いしリスクを感じてめんどくさいと思っていることがわかった。つまりこの気持ちは不安の初期症状なのだ。考えてみれば、就活をする前や、下手ながら絵を描くとき、テスト勉強をするとき、そういった時にこのめんどくさいという気持ちが出てくる。すべてできるかどうか怖いことの前なのだ。自分は相当不安を感じやすいたちの人間であり、ダメだったらどうしようとか、うまくいかないくらいならやらないほうがマシだと逃げる傾向がある。その逃げるというのがめんどくさがるという形で現れているのかもしれない。逆に言えば過度に上手くいくことを期待してる。それができない可能性が高いと判断したときめんどくさがる。不安に支配されている臆病な自分を認識せずただ、ダルいからやらないというダメ人間に擬態することで心の平穏は保てるのかもしれない。しかし、それは自分の精神を確実に蝕んでいる。だから今どうしようもない気持ちをここに吐き出すことで、前を向きたがっている自分が確かに存在する。めんどくさいを不安感と認識した今、どうやったらそれが解決できるのか探りたい。自分を変えたい。もっともっと前に進みたい。でも、どうしたらいのか全然わからない。焦る。また不安になる。孤独を感じる。辛い。

でも自分の人生に責任を持てるのは自分だけだ。この不安感を、克服したい。なにもしないで、しのぐ毎日はもう、こりごりだ。だがどうしたらいいんだろう。

敗北者として。

大学卒業も間近ですが、まだ内定は出ていません。

というかもう諦め休学しました。休学中に最後の一手として受けた会社もあったけれどそこも普通に落ちたのでもうどうでもいいかな。

にしても最後に受けた会社なんだったんだろ。ろくにこっちの情報も見もせず(自分がインターン組だったこと、4年であることすら把握してなかった)面接して、最後に「就職活動頑張ってくださいね」だと、ふざけんじゃねえよ。一体何なんだわざわざインターンやって呼び出してES長々と2回も書かせて、それで?そっちは何も見ず本番アドリブに近い感じですがそうですか。正直、潰れてくれと思うよ。隠さなければ。

 

まあなにはともあれこんなことで人を評価するのが当たり前の社会でやっていく自信はないのでもういいかな。別に自分が優れた人材だと言うわけじゃない。ただ、ただ、この社会でやってける自信はないよ。そもそも心療内科行って闘病中ですからね、社会に出るなんて無理無理。就活システムはおかしいと思うよ。人のポテンシャルなんて見れるはずもないもの見てこれは優秀だのなんだのやってんだもん。ほぼバクチですよ。人の性格や考えも永遠に同じなわけじゃないしね。…まあただ、結局それを可笑しいと思ったところでじゃあシステムがガラッと変わることがあり得るか?といったらそうでもないし、そこに意味はない。結局自分には耐えられなかった。多くの人間が耐えてなんとかすり抜けてる就活システムに、自分は敗北した。だから、独自の活路を見出さなくてはならなくなった。いっそ水の流れに身を任せて流れ落ちてしまえば楽なのにね。でも身を委ねることの曖昧さランダムさにも疲弊してしまった自分にはもうこの方法しかない。真っ暗な道をライトも持たずにただ進むしか。

 

死にたい。そう思うことも増えた。ただ、いざ死を間近に感じると死ぬのが怖くなったのでそれも諦めた。今は、死ねないから生きている状態に等しい。

 

今までの人生、何だったんだろう。別に恵まれてなかったとは言えない。確かに父親はアルコール依存症のギャンブル中毒のクズだったけど、友達にはこれ幸いにも恵まれていた。人生いい面もあれば悪い面もある。受け止め方次第だ。ただ、今は良い様に受け止める気力はない。

 

思えば、大きな勘違いだった。自動的にやることをやって、世間の風潮の中で生きていけば自分の人生が保障されると。上手くいくと、そう思ってなんとなく暮らしていた面が確かにあった。ただ、だれも俺の人生を保証してくれはしないし、究極自分のやりたいことをやらせてくれる人間は自分しかない。自分ですら自分のことをよくわからないのに他人がわかってくれる。どうにかしてくれるなどというのはげんそうにほかならない。

 

世間なんてどうでもいい。自分はあくまで自分のやりたいように生きていく。そう思えれば割り切れて幸せだろう。まあ、まずはメンタル整えることから始めないといけないんだが。エチゾラムロラゼパムスルピリド

 

別に敗北者でもいいじゃない。自分が戦い辛いフィールドだったのなら。

 

ただ、活路を自分の生き方を見つけ出したい。どんな形であれ。

 

非常に難しいだろうけど。

 

おわり。人生はまだ少なくとも明日までは続く

いつ良くなるかわからないメンタルと共に

死人にブログは書けない。

死人にブログは書けない。もしも、死人が書いたブログがあるなら見せてほしい。ブログ、コラム、Twitter、人が自分の人生の経験を晒すことが多いツールであり、その中で〇〇があって大変だったけれど今は充実しているという内容をよく目にする。なるほど、参考になるなと、同一人物の別の記事を見ると、「おやおや…なんか雲行きが怪しくなってきたな」と言いたくなることもある。あくまで充実してるとか、辛いとかいうのはその記事を書いてる段階であり、その後どうなってるかはわからないのである。そして個人運営のブログというのはその後どうなったかをわざわざ伝えないことも少なくない。すごく無責任な話であるがその無責任さこそブログやSNSが世間に受け入れられたきっかけなのかもしれない。

さて、そう考えると参考になる記事は誰が書いたものなのだろうかという疑問が生まれる。そこで出てくるのが“死人が書いた記事”だ。人生というゲームをクリアした人間が書いたほうがある程度参考になるだろうな、と思うんだけど現実的ではない。なぜなら死人にブログは書けないからだ。死後の世界があるのかもわからん、多分ないと思うけど。仮にあってもどうやらインターネットに接続できる世界ではなさそうだ。死人と交流ができたなら「俺これで死んだぞ」という生々しい忠告が聞けるようになるから便利だなとは思う。

昔、自転車のヘルメットを買おうと思ったとき、Amazonの安くて評価高いやつを買おうとした。そしたら友達が「死んだら低評価つけれないからな」と言ってたのを聞いて以来死者がネットでカキコできたら便利だなと思うようになった。

流石に現実的ではないな。そうすると今度は定年を迎えた方々が指標になるはずだけれど、やはり高齢者の方々はネット環境からある程度離れた生活をしているようで(少なくとも発信者になるケースは少ない気がする)せいぜいイデオロギーバリバリの記事くらいしか出てこないように思える。

するとどうだろう、インターネット上にある情報というのは信用に足るものなのだろうか?作品を途中までしか見てない人間に「この作品面白いよ」と言われて手に取るだろうか?それと同じことなのではないか。

強迫性障害という病気

強迫性障害という病気がある。僕は小学校4年生のときからそれと共に生きている。

簡単に説明すると、日常のありとあらゆることが不安になって行動不能になってしまう病気だ。人によって細かい症状は違う。潔癖症のようなものが代表として語られてるけどね。僕の場合はホームで人を落とすかもしれない、コンビニで万引きをしたかもしれない。曲がり角の曲がり方が気持ち悪くてやり直さないと不幸なことになるかもしれない。あとは、ドアを5回開け閉めしないと気がすまないといった症状がメインだった。要は自分のことを疑ってしまうということだ。ピーク時期は本当にひどくて一日中布団から出られなくなった。この病気の治療法は「気になるけど気にしない」というのに限る、と自分では思ってる。自分の中の「こうしなければならない!」という命令を「知るか!勝手に言ってろ!」と思い切って無視するしかない。逆に気にすると症状は悪化するばかりだ。

そんなこんなで強迫性障害とは長い付き合いをしてきた。だいぶ良くなってきたが、免許取って車運転するようになってやっぱり治ってないんだなと実感した。〇〇かもしれない運転が度を超えて運転に過度な恐怖を覚えた。まあ、運転してるうちに人並み程度には落ち着いたけど。

強迫性障害って主な症状が治っても、脳の恐怖に対する反応が敏感になっちゃうんだろうね。だからいろいろなことを始める前は人一倍不安になる。特に予約して、時間守ってというのは遅れる可能性とか、事故とかいろいろなことでモヤモヤする。行ってしまえば楽なんだけどなぁ…。

そんなこんなで就活時期、やっぱり発症するよね。面接に行く前が冗談抜きで一般人の114514倍位辛い。もう続けたくないわと思う。脳の切り替えがうまく行かず、ずっと将来の不安に苛まれる。なんかどうしたらいいんだろうなぁ。このままこいつ(強迫性障害)と死ぬまで一緒なんだろ…、なんか人生うまくやってける自信がないわ。全能感とか、ほしい。

燃え尽き症候群

燃え尽き症候群だったのかもしれない。大学に入ってからというものの、サークルに行く気も起きず、かといって授業も面白くなく、気を紛らわすために動画を見てゲームして一日終わり…。色々活動もしようと思って一念発起することは何度かあった。しかし、どれも続かない…中途半端になる。理想が高いだけなのかもしれない。いずれにせよ、もっとうまくできると思ってた。自分は自信がない、明確なキャリアも築けない。怖い。明らかに人生の全盛期は高校時代だった。高校3年の3月末、あの時で時間が止まってくれればよかったのに。そう、人生は続くのである。アニメや映画では一番クライマックスでエンディングを迎える、だが人生はそうではない。どんないい時があってもそれは終わりを意味しない。むしろその後に絶望が待ってるのかもしれない。何があるかはわからない、ある程度予想はできるのかもしれないが、全く違う環境に行くとき、未知数の塊になってしまう。そのステップに踏み出すことが辛い。人生は創作作品ではない、進み続けるしかない。進み続けて何があるのだろう。死ぬまで進み続けて、どうなるのか。わからない。正直何に悩んでいるかもわからない。漠然とした不安、そして永劫回帰、辛みしかない。残念ながら人生は続くんだ。同じ道をやり直すことも、はじめからすすめることもできない。いずれにせよ俺のやる気は垂直落下をした。

野草を食べる方法を学びたい。

野草を食べる方法を学びたい。なぜかと言うと社会に出る自信がないからである。現代社会で労働をする大きな理由はお金だ。そしてそのお金で何をするかというと生活をするのだ。衣食住とりあえずこいつの充足率を上げるために仕事をする。つまり、野草食って暮らせれば食はどうにかなる、とりあえずしばらく働かなくてもいいではないか!と思ったわけだ。住居に関しては、まあ、暖かいうちはどうにかなるだろう。しかし野草だけだと栄養源が足りないので昆虫食も考えないと…。まあ色々とサバイバル生活するためのノウハウを積みたい。どうせ人間いつか死ぬんだしそれまでは自分にあった生き方をしたい。そして就活が本格的に始まって一ヶ月ろくに危機感も持たずにまあどうにかなるやろとか思ってる自分なのでどう考えても現代社会に適応できてないのだろう。なのでいつでも首切られてもいいよう野生で暮らす術を身に着けないとなぁ。